光風会岡山支部作家ファイル

 

 

FILE009 深井 貞子

「平面を自ら構成する

という術を学びました」

『醤油蔵』

(第86 回記念光風会展入選作)。

 

亡父の肖像画(部分)。

吉備専敬流いけばなの総家督だった。

「トンビのマントにフェルト帽

という出立ちも似合う粋な人でした」

吉備路の国分寺や樋門、

アイビースクエアなど、

岡山の風景を多く描いていた時期もあった。

 

  「岡山光風会賞」の

受賞あいさつをする深井さん。

展覧会場の天神山文化プラザにて。

 

 

 

●「 10 年同じものを描き続けなさい」

 北政所ゆかりの陣屋町、足守で、代々醤油造りを続けた商家、藤田家。

深井貞子さんが『醤油蔵』シリーズ作成のモチーフにしているのが、

この旧足守商家藤田千年治邸の醤油工場だ。

職人たちが受け継いできた熟練の技や、

子どものように手をかけてじっくり「育て」られた醤油を、受け止め、

支えてきた木の道具たち。

そこにあるだけで、さまざまな歴史や物語を伝えてくれるような、

重みのある道具たちと、深井さんは向かい合ってきた。

 このシリーズをはじめて、今年で9年め。

福島先生の「同じものを 10 年は書き続けなさい」という教えを守ってきた。

7年めの秋に日展初入選、そして8年めの昨年は第 35 回岡山光風会展で

「岡山光風会賞」(旧「 H 氏賞」)を受賞。

誰にも描けない、深井さんだけの『醤油蔵』が確立されつつある。

「遊びでここを訪れたとき、いい雰囲気だなあとは確かに思っていたのですが、

ここまで追究することになるとは思ってもみませんでした。

趣きのある建物だけれど、こういうものは、もう誰でも描いているなあ、

と思っていたくらいで」

と深井さん。

そんな先入観を解放してくれたのは、

光風会常務理事、寺坂公雄先生のアドバイスだったという。

「蔵のなかには、いろんなものがあるだろう。

そんなものでも、絵は構成できるんだよ」

 

●床にへばりつくようにして見た木桶の姿

 見たままを描くのではなく、いかに平面を絵として構成するか。

深井さんの試行錯誤が始まった。

たくさんの醤油樽や桶から、どれを選び、

どのようにキャンバスのなかに配置するか、

どの視点からそれらを見つめるか。

漆喰の壁をどれほど見せるのか。

威風堂々とした梁は、どう配置すれば

他のモチーフと良い相乗効果をもつだろうか。

「結果として、床にへばりつくようにした姿勢で

見る構図になりました。

立っていては、梁は、ああいうふうには見えないんです」

 道具類の間にのぞく、隙間の大きさ、

壁の白と飴色の古道具とのコントラスト。

もっとも視覚的に美しい平面づくりのための計算が、

このシリーズのなかには随所に隠されている。

「そして絵を見てくださる方に、そんな計算が臭うようではいけない。

伝えたいのは、むしろ埃や黴の臭い、

この国に確かにかつてはあった、

古き良き職人たちの技の面影ですから。

難しいところです」

 

●自分をなくさないために描く

06 年3月に、自宅のアトリエを改装した。

いわゆるバリアフリー化である。

左足の人工骨置換という大手術、リハビリを乗り越え、

深井さんは精力的に描き続けている。

「絵をはじめたのは、夫、義理の両親と、

立て続けに亡くなったのがきっかけでした。

いちばん小さい子がまだ小学校4年生のとき。

当時は洋裁の仕事をしていました。

仕事と3人の子の母親業で押しつぶされそうな毎日で、

このままだと自分がなくなってしまう、という危機感があったのです」

 女学校時代、放課後も残って描いていたほど好きだった

絵のことを思い出したとき、

確実に深井さんの人生は変わったのだ。

岡山支部顧問である久山章先生との出会いがあり、

それが光風会との出会いにつながり、

9年前からは福島先生のカルチャー教室にも通っている。

「美しいものに触れる喜びが、絵を描くことを通じて、

どんどん広がっているように思います」

と深井さん。

アトリエでは、弟さん作の大きな壷に、丹誠した庭の花々を生ける。

そして、それを絵筆で再現する。

自然への愛情や感動は、

月に1回通っている短歌の会でも詠われる。

表現することは、深井さんの毎日に、

ごく当たり前に溶け込んでいる。

 

 

 

(構成・文/中原順子) 08・05・01

FILE008 那須 萬喜子

「私だけの樋門を描きたい」

という表現欲がやっと出てきた。

 

 

「空も水も、見ると描くとは大違いで」という

『樋門』シリーズ

(第 90 回記念光風会展入選作)。

 

「日曜油絵講座」の講評風景。

人物画はやはり大好き。

「見える線の下にある人体をとらえるのが難しいんですが」

 

『15才の休日』(第88回光風会展)。

テレビゲームをしているお孫さんをずっと描いていた。

成長に伴って、「少年」の姿ではなくなって、

シリーズを終了したのが『樋門』シリーズへの転向のきっかけとなった。

●プロ集団を前にカルチャーショック。

 

 月2回開講の、福島先生の『日曜油絵講座』が始まったのは 1990 年 10 月。

実は那須さんの洋画人生も、この講座の第一期生として同時にスタートした。

「今度、油絵をはじめるんですけど、何が必要でしょう?」

と画材屋で道具一式そろえ、

新たな趣味作りくらいの軽い気持ちで門を叩いた習い事は、

光風会との出会い、そして終わりのない探求への道につながった。

 

「申し込みのとき受付の方に『絵を描いたことがありますか』と聞かれて、

『はい』と答えたんです。

油絵の経験はありませんでしたが、絵なら子どもの頃のお絵描きでも、

美術の授業でもやっていたし、と。

そうしたら、講座が始まってから、ほかの方のレベルの高さにびっくりしてしまって」

 

 そういえば、受講生募集の広告に「中級者以上」と書かれていた、

と那須さんは苦笑しながら振り返る。

それでも、すぐに油絵の魅力にとりつかれた。

 

「講座のある日は、孫が『おばあちゃん、今日は絵のお勉強の日だね』って。

ふだんとは出立ちも表情も違うらしくて(笑)」

 翌年からは、基礎をしっかり学ぼうと、

4年間、坂手先生のデッサン教室にも通った。

 

曰く、負けず嫌いで、やりはじめたら、とことん熱中するタイプ。

95 年には光風会岡山支部入会する。

 

「初めての研究会では、錚々たる方たちの集まりに、

これはとんでもないところに来てしまった、とまたカルチャーショック(笑)。

福島先生が『光風会はプロの集団』とおっしゃったのが、身にしみました。

この言葉には、今も戒められていますが」

 

 

●行き詰まっては通う樋門への道。

 

 ところで、那須さんといえば

2004 年から続けている『樋門』シリーズが思い浮かぶが、

なんと、これが風景画の初挑戦。それまでは、光風会にも人物画で出品していた。

「風景は、なぜかずっと描かず嫌いだったんです。

静物は好きだったので、最初のころは樋門も、自分のなかでは風景というより、

静物画のモチーフの感覚。構図のとり方も、まったくわからなくて、

写真を拡大して、比率を計算して。

まるで設計図を描くみたいな作業をしていました」

 

 児島湖の干拓時代の面影を残す、今は閉じられたままの近所の樋門に、

那須さんは自転車で何度も何度も通う。

「行き詰まっては見に行って描いて、家で制作しているうちに、

ああ、こんなはずじゃない、となってまた見に行く。その繰り返しです。

淀んだ水、凍えるような朝の凛とした空気感…。課題はいつもいっぱい」

 

 ふと人物画に帰りたいなと思うときもある。

「でも、福島先生に、もう戻ったら駄目だと言われてます。

悩むのはいいけれど、迷うのはいかん、

決めたら迷うな、ほかの人の描く樋門を蹴散らすつもりでいけとまで(笑)。

でも、私だけの樋門が描きたいのは確かです」

 

 油絵をはじめたころは、講座の前日になると

「わあ、明日は絵の日だ!」とわくわくしていたという那須さん。

創造の喜びだけでなく苦しみも知ってしまった今は、

単純に楽しい、という感覚からは卒業したという。

「最近になって、やっと『自分の絵を描く』というスタートラインに

立てたという気がするんです。

自分を表現したい、そして、

ほかの人にも何かを感じてもらえる絵が描けるようになりたいって。

まだまだこれからです」

 

 

 

構成・文/中原順子  2007・05・01

FILE007  岸本 修

「導きについてきて、

今の自分と絵がある」

 

 

第 92 回光風会展で光風奨励賞に輝いた『屹立』

 

 

教師になってからの制作場所は、もっぱら学校の美術準備室。

「そういえば、大学時代も、

やたらと学校に残って制作しているタイプでしたね」

 

 

 

学生時代からのクロッキー。

「牛も最初はデッサンが狂っていて、

先生方に犬みたい、驢馬みたい、とよく言われてました(笑)」

 

●人も自分も楽しめる絵を目指して。

 強い自我を他者に出さない人だ。

物静かに淡々と言葉を選んで語る人。

その岸本修さんが、

「描いてるときに、<おっ、お? おおっ !? >となった。

うまく描けたというより、描いていて面白かった」と教えてくれた作品が、

第 92 回光風会展で光風奨励賞に輝いた『屹立』だ。

「こういう状態にはめったに行けないんだけど(笑)。

研究会などでいつも清原(啓一)先生に言われてることなんです。

堅くなって描いてたら駄目なんですね。

そうすると人に自分を押し付ける絵になってしまう。

人も楽しんで、自分も楽しめる絵にしないと」

 ずっと描き続けているのは、

人物と、その背景のように座している牛。

農家に生まれた岸本さんには、牛は身近な素材だ。

蔵に唐箕(とうみ/穀物を精選する農具)があるような、

友人から「トトロの世界みたい」と言われるような

日本の古い面影が残っている農家。

そんな生まれ育った世界を偲ばせる作品を描いていることを、

言葉にこそ出さないが両親も喜んでいるそうだ。

「<あんたの家には牛がおるんですか、

ええですなあ、そういう家はもうほとんどないですからなあ>

と薦めてくださったのは福島(隆壽)先生です。

人の描かない、目立つものを描けと」

 

 

●50 冊描きためたスケッチブック。

 目の前の状況に抗うことなく、

むしろ師や先輩の教えを素直に受け止めて挑戦してきた。

そもそも岡山大学で美術教育を専攻したのも、

積極的に美術の道に進もうと考えていたわけではなく、

家庭の事情などで、否応無しに選んだ進路だったという。

もちろん、小さい頃から絵を描くのは好きだったけれど。

「慌てて受験用の美術の勉強をしたんです。

これしかないんだから、頑張ろうって」

 しかし、そのとき教えを請うたのが、

故・小森俊顕先生であり、

それが光風会との出合いに繋がっていったのだから

縁というのは面白い。

「大学では、美術への意識の高い同級生のなかで

門外漢のように感じていたときもありましたけど、

いい先輩に恵まれたんですね。

いつの間にか馴染めていました。

最初に県展に出品したときも、<出してみれば?>と言われて、

そうか、そうするもんなのかって(笑)。

先輩が、画材屋に一緒に行ってくれたりね」

 入学した年に、とある先生に

「スケッチブックがこれくらい(と肩ほどの高さに手を上げて)に

積み重なるまで練習したら、上手になるよ」と言われて、

すぐに挑戦しはじめた。

今も保存してある、当時からのスケッチブックは、 50 冊は軽く超えている。

 

●やっぱり興味があるのは人。

 ところで岸本さんは、似顔絵イラストの名手でもある。

「自分にとって気安い人ほど、毒のある顔になるかも(笑)」と、

さらさらと描いた友人や恩師の顔は、学生時代から周囲にも好評だ。

「幅を広げるために、静物や風景も描いていかないとな、

とは思っていますが、作品にはなかなかできません

まずはこれからも人を描き続けていってみたいですね」と岸本さん。

数年前、一度行き詰まって以来、

実際に人と向きあってしっかり描くようになった。

それは自分自身だったり、あるいは同僚だったり。

その人らしい、生きた重みが感じられる佇まいを、

岸本さんの原点とも言える牛がこれからも見守っていくのだろう。

 

構成・文/中原順子(フリーライター)

 

FILE006   河野あき

 

「風化していく風景の美が、

大切なことを教えてくれる」

 

 

 

91回光風会展本展出品作の『朝の遺跡』。

朝の真新しい光が、歴史の遺産を照らしている。

 

「そろそろ次の絵の転換期に入るべきときに

来ていると思っています」と語っていた河野さん。

93回光風会本展出品作『遺跡の一隅』では、

久々に人物を大きく描いた。

 

File005 萩原純子

「目の前の緑を

どこまで再現できるかが課題」

 

91回光風会展に入選し、

岡山光風会展でH賞を受賞した『朝霧(ぶな林)』。

輝くばかりのぶなの白い幹に、足元の熊笹、

霧の煙る感じが印象的な『朝霧(ぶな林)』。

若杉原生林のなかで制作中の萩原さん。熊脅し用のポータブルラジオ(写真右下)は必需品とか。

100号のキャンバスを担いで登るのは

ご主人の役目。「まさに夫との二人三脚で描いているんです」

と萩原さん。

●納得できるまで学び続ける情熱。

 近くにあった美大の学生たちがスケッチブックを抱えて闊歩する姿に憧れて、

ほんの軽い気持ちで美術部に入ったという、

かつての京都の女子大生が、

一昨年光風会会員入りを果たした。

「これまでの紆余曲折が実は1本の道になっていたことが今になってわかる」

と河野あきさんは振り返る。

短大卒業後、結婚、出産、育児で一度は手放した絵筆を、

通信講座を受講して再び握るようになった。

今でも折に触れて手にとって見直す当時のテキストは、河野さんの宝物だ。

 以来、「もっと上手になりたい」という情熱が、

いつも河野さんを突き動かしてきた。

東京で開かれる勉強会にも積極的に参加し、

多くの人の作品、考え方に触れた。

「子どもが受験生でもおかまいなし。

<余所じゃお母さんのほうが受験に熱心なくらいなのに、

うちは放ったらかしだ>と息子に言われたこともあります」

と河野さんは苦笑する。

一度やると決めたことには、

納得できるまでとことん追求してしまうタイプだという。

椅子をモチーフにした作品制作のときには、

これぞという椅子を探し続け、大阪まで足を伸ばしたこともあるそうだ

(この作品は、 89 年に県展市長賞に輝いた)。

 

●石膏デッサンから学び直したスランプ時代。

 初めて大きなスランプに陥ったときもそうだった。

今から 20 年近く前のこと。

見えない壁を破るために河野さんが選んだのは

「一からやり直す」という道だった。

「石膏デッサンを習ったのはこの時期です。

基礎をしっかり固めようと思い直したんです。

改めて本気で絵画と向かい合おうと思えた、

私にとっての転機の一つだったかもしれません」

 間もなく次の転機がやって来た。

89 年秋から約1年、ご主人の留学に同行して過ごしたヨーロッパ。

オランダ、ドイツ、イタリア、オーストリアと、

そのものが芸術のような街並と、

美術館の膨大なコレクションに囲まれて過ごした。

「小手先のいい加減な作品を作っていては恥ずかしくなるような、

本場の、圧倒的な美の数々を目の当たりにして、

かえって気が楽になりました。

あるものをあるがままに描けばいいんだと、ふっ切ることができたんです」

 

●深く考える喜びを、絵画が教えてくれた。

 今も続く、彼女のヨーロッパシリーズはこうして生まれた。

90 年の日展に入選した、シリーズ第1作の『村の朝』を、

河野さんは「自分にとっては処女作のようなもの」と言う。

そこに生きてきた人々の思いや息づかいを吸い込みながら、

年月をかけてゆっくりと風化していったような、ヨーロッパの石畳や壁。

そして、その中で「今」生きている、ごく普通の庶民の暮らし。

長い時の流れと現在が自然に溶け合っているのが、

河野さんのヨーロッパシリーズだ。

今も1、2年おきにご主人とヨーロッパに出かけては、

スケッチを楽しみ、新たな創作のインスピレーションをかき立てている。

「たとえばギリシャ遺跡などの古い大理石の質感に魅せられます。

何千年もの昔からの人々の歴史があって、

その延長上に自分がいるのだと思うと神妙な気持ちになる。

何かを見ても表面的な感想に終わらず、

深く物事を考えるようになってきたのは、

絵画が私にくれた恩恵だと思っています」

 

取材・文/中原 順子

 

 

 

 

 

 

●出品で学んだ「描く」ことの緊張感。

 故日原晃氏にちなんだ「 H 氏賞」受賞作(第 33 回岡山光風会展)『朝霧(ぶな林)を、「その美しさを誰よりも知っている作者が描いたもの」と福島隆壽先生は称した。

自身の住む西粟倉村の原生林を描き続けている萩原純子さん。1枚の作品のために、ご主人と1時間以上かけて山道を登る日々が数日続く。

「風景がもっている品格や神々しさまで絵に盛り込もうとしている」(福島先生)ほどに、彼女はその雄大な自然に日々静かに向き合っている。

 しかし、そんな萩原さんが本格的に絵筆を握ったのは、なんと 50 歳で小学校教諭を早期退職してから。柴田晴江先生の絵画教室に通ったのがきっかけだったという。家事や介護に追われる日々のなか、何とか時間をやりくりして週に一度、津山の教室まで通ったのだそうだ。その後、鷲田重郎先生、高山始先生に師事。このころから県展をはじめ、さまざまな絵画展に出品するようになった。

「あっちに出せ、今度はこっちに出せ、と先生の言われるままに、ただ夢中で描いていました」と当時を振り返って笑う萩原さん。けれどもこの日々が、何よりの研鑽になったとも言う。

「他人の目に触れられるという緊張感やプレッシャーが大切なんですね。習作ではなく、作品として最後まできちんと仕上げる過程で得られることがたくさんあるということもわかりました」

 この経験をふまえて、自ら主宰する絵画教室の生徒さんにも、毎年年賀状や書中見舞いを「描く」という課題を出しているそうだ。

「手近にある野菜でも花でも何でもいいから、必ず実物を見て描いたものを送ってちょうだいね、って。楽しみながら描いてほしいし、これもきっと力になると信じています」

 今年の県展に出品した生徒さん 10 人のうち6人入選、うち2人入賞という快挙も、おそらくこんな指導の賜物に違いない。

 

 

●四季の移り変わりを描くのが目標。

 

 ところで萩原さんは、その独自の画法でも知られている。たとえば着彩の順序には自分で決めた規則がある。砂を入れたマチエールも特長。また現場に出かけるときには、あらかじめ色を練っておいた数種類の絵の具の小瓶を持参するのだそうだ。

「刻々と変化していく自然を相手にしている貴重な時間を、色を作るのに費やすのがもったいなくて思いついたんです。うちにいるときに写真を見たりしながら、自分の見た色彩を一所懸命思い出して、色を作っておくんですよ」

と萩原さん。木々の緑は題材として難しいからやめろと、かつて言われたこともあるという。

「でも好きな題材だから必死になれるんだと、描き続けてここまで来てしまいました。木々の生命力を目の当たりにしたときの感動を、なんとか描いていけたらなあと思っているんです」

もっとも好きなのは初夏の原生林だが、四季折々の美しさも捨てがたい、と萩原さん。いずれ同じ構図で四つの季節を描いてみたいと意欲的に語っている。

 

構成・文/中原順子(フリーライター)

File005 魚森貞雄

「これ以上に美しいものが

あるんだろうかと思う」

 

 

良質の石が採掘される万成山。

芸術家が多く集まり、制作を行う場でもある。

取材時「山の姿に惚れ込んで」と話してくれたのは

20年以上ここで立体制作をしている作家。

 

槙谷川の清流や木々の自然美と相まって、

国指定の名勝として知られる豪渓。

その豪快な岩石美を描いた『巌(豪渓)』は、

第 31 回日展( 1999 年)入選。

第 36 回日展( 2004 年)入選作『花紅の巌丘』は、

万成山の採石場を描いたもの。

 

大多府の夫婦岩。この地で魚森さんの

美術人生が始まった。

(写真提供:備前市)

 

 

●好きだから描く、ということ。

 

「絵を描くのが、とにかく好きで好きでたまらんのです」

 魚森貞雄さんは、こんなシンプルでまっすぐな台詞があまりにもしっくり来る人だ。

去年の冬には、心臓疾患で入院中には、看護士の眼を盗んで毎朝、敷地内を散策し、2冊のスケッチブックをいっぱいにした。若い頃は、移動中の船上でも、汽車中でも、束ねた反故のワラ半紙に、寸暇を惜しんで描いていた。戦後間もない、スケッチブックなど簡単に手に入らない時代のことだ。

 

「汽車の中で、向かいの席に座っている人を描き出したときは、何を勝手に描いているんだ、とその人にムッとされてねえ。銀座の大通りでも写生していたことがあります」と魚森さん。こんな「熱中エピソード」を挙げればキリがない。

 

 自他ともに認める「岩を描く人」として、万成山(岡山市)や豪渓(総社市)など、花崗岩の切り立つ岩場に、画材一式を愛車に積み込んで日参する姿は、病後も健在だ。「体が鈍ったら描けませんから、毎朝真剣にテレビ体操をやっとるんです」という笑顔の、健康的な陽焼けがたのもしい。

 

 

●厳しくもあり、無垢でもある岩。

 それにしても、なぜに岩なのか。こんな獏とした質問に、魚森さんは半ば困りながらけれど頬を紅潮させて答えてくれた。「こんなのでも、いいなあ、好きじゃなあ」と、足もとに転んでいた小石にも眼を細めながら。

 

「どんな小さい石でも、空間を切ったような、深い、厳しい線をもっている。それがきれいだなあと思うんです」

 どうやら自宅には石のコレクションもあるらしい。

「採石場。これがまたいい。爆破され、掘り出されて、初めて外界に生まれ出たばかりの岩肌といったら……」

 赤ん坊の無垢な輝きか、乙女の肌か、いや、これ以上に美しいものがこの世にあるんだろうか、と言いかけて、魚森さんは笑った。中学校で教えていたころ、夏休みに出かけた大多府島(備前市日生町)で、松林を背景に波に洗われる岸壁の姿に魅せられて以来の、数十年もの恋心なのだ。

 

 

 

●戦死した兄の後を継いで。

 「魚森くんのように描くんじゃ」と他の生徒にその作品を見せて、褒めてくれたという旧制中学時代の恩師をはじめ、光風会関係はもちろん、大学や美術学校、その他の縁で知己となった師の教えを昨日のことのように覚えている。

スランプのとき「絶対絵をやめるな」と言われたこと、「重ねたら背の高さになるくらいまでの枚数を練習したら、デッサンがうまくなる」と言われたこと。「僕は何でもエエほうに解釈するんです」と語る、その大らかなひたむきさが、おそらく良い出会いを生んできたのだろう。

 

 そんな魚森さんが静かに語るのが戦死した兄のこと。戦況が許さず、徴兵されないものと言われていたのが戦地に散った、若き小学校教師の一人だった。その兄に所縁ある人々の支えで、魚森さんは教壇に立ち、やがて美術の道に進むことになったそうだ。

「生きとるときに元気で頑張らんと。描かんと」と、自分に言い聞かせるように、私たちを鼓舞するように何度も言う魚森さんのそばに今も、亡き兄上がいる。終戦60年の夏がもうすぐやってくる。

 

 

 

構成・文/中原順子(フリーライター)

 

 

 

 

File003 飯塚康弘

「人の強さを

描いていきたい」

 

 

飯塚さんのこだわりが実現した、美術棟の素描室。

北窓の自然採光が心地よい

 

制作はもっぱら学校で。授業や部活動の最中に、

生徒と一緒に描くことも多い。

「そうすると生徒たちも静かに

集中して描くんですよね」と飯塚さん

 

87回光風会展入選作『冬の日<西>01.3』をはじめ、

ここ数年描き続けているのが、漁師町の風景

 

 

 

●「描きながら教える」という生き方。

  昨年5月に倉敷で行われた夏季講習会の参加者なら、大人たちに混じって真剣な面持ちで講評を聞いていた高校生たちの姿を覚えているだろう。

彼らを引率していたのが出雲北陵高等学校美術コース主任の飯塚康弘さん。

「挨拶をすること、嘘をつかないこと、約束を守ることには厳しい教師かも。周囲に愛される人間になってほしいですから」と禁欲的な教育者の一面も見せる彼は、2002年開設時から同コースに携わっている。

  教師と制作活動の両立は大変だと思うのだが、「教えながら絵を描き続けている先生たちはいっぱい。僕なんかまだまだ」と自分にも厳しい。

目指すべき姿を見せてくれた過去の出会いが彼にこう語らせるのだろう。その一人は高校時代の恩師。美術準備室でずっと静かに絵を描いている姿に「こういう生き方もいいなあ」と思い、美術系の進学を決意したという。そしてもう一人が、岡山大学教育学部・通称「特美」で出会った福島隆壽先生だ。

 

 ●模索を繰り返していた岡山時代。

   黄色でリンゴを描いたとき、「面白いですなあ」とおっしゃった福島先生のことを、「直感的にいい先生だと思った(笑)」という飯塚さん。しかし福島研究室時代は「描くことの大変さ」を学んだ時代でもあったらしい。

「なんだかとても困ってたんです。先生の絵にそっくりになってしまったり、教わったことは全部排除して自分でゼロから始めようと思うと、今度は絵がまったく出来上がらなくなったり。作風も『こんなに変わる人、おらん』ってくらい変わりました(笑)」

 人物画から抽象まで手当たり次第に挑戦し、もがいていた当時を 10年近くの歳月が経たいまなら、客観的に振り返ることができる。

「教える立場で生徒たちの作品を見るようになってみて初めて、人には特性があることがわかってきたんです。無理する必要のない、その人らしさというものが。でも、放っておいたら、つい新しいことを試してみたくなるのも、人間というものらしいですね」

 生徒たちが「自分らしさ」から逸れていかないように見守っていたいという飯塚さんの願いは、紆余曲折を経た先輩としての気持ちなのかもしれない。

 

 

故郷の風景に託す、たくましい人間の姿。

  そんな飯塚さんが帰郷をきっかけに描き続けているのが、生まれ育った島根の風景。いわば、「原風景を通して人を描く」という試みだ。

「ここから逃げずによく生きてるよなあ、という人間の強さみたいなものが描きたくて」

と飯塚さん。その視点には、厳しさと優しさ、せつなさと喜びが同居している。

「人間を描くと、思い入れでカーッと熱くなりすぎるところがあったのが、風景に思いを託すことで普段着のように描けるようになったかもしれません。でもやっと自分が今ごろ気づいたことが、実は大学時代にすでに先生に教わったことだったりする。 10年分のことを先に教わっていたのだなあ、と改めて最近感謝しているんです」

 

構成・文/中原順子(フリーライター)

 

File002 粟井弘二

「見えるものが変わってきた」 

 

 

                                                               

粟井内科に飾られた初期作品。

絵本のなかの1ページのようだ

 

法界院の外から見える独特の風情

をもつ大木を描いた作品

 

 

●ある日、画材一式を送られて。

 岡山市津島京町の粟井内科医院で理事長を務める粟井弘二さん。医院と自宅の入ったビルの特徴的な外装は、なんと自ら絵筆を取って色調を考えたもので、窓の桟組みも黄金分割に基づいているのだとか。光風会展に出品した『牛窓遠望』シリーズ( 1990 〜 92 年)をはじめ、風景画を描き続けている、粟井さんらしい景観美へのこだわりだ。

 およそ 35 年前に遡る、絵画との出合いもユニークだ。とある絵画同好会に誘われて顔を出したところ、リーダー格の先生に「自分でも描いてみたら」と薦められたのだ。

「その翌日には道具一式が請求書付きで送られて、しかも、『描き方は、入門書の類がたくさんあるから、それで勉強しなさい』とのお言葉でした(笑)」

 

●アメリカ北部で見た幸福の光景。

 こうして自己流で小品をいくつか描いたあと、「何か目標をもって描かないと進歩もない」と初挑戦した県展で、見事、入選を果たす。このとき 30 号に描いたのは、クリスマス・シーズンに見た、夕暮れどきのデトロイト郊外の住宅地。昭和 30 年代に米国公衆衛生局の招聘でアメリカに滞在した際に、心に刻み込まれた風景だった。

「外壁や庭、それから道路に面した庭のモミの木などにも、それぞれの家が工夫を凝らした飾りつけをしていて、雪化粧を色とりどりの光が照らしていました。そして、窓からは温かい団らんの明かり。北欧の慣習を受け継いで町じゅうがクリスマス一色に彩られた様子は、当時の私には、子どもの頃に絵本でしか見たことがない、幻想的な世界でした」

医院開業からまだ数年の多忙な日々のなか、当時撮影した写真を見ながら夜遅くまでこつこつと描いたうちの1作は、いま粟井内科の 1 室に飾られている。

 

 

●研究会で見ること、学ぶこと。

 粟井さんは「描くことは見ること。そして見えるものを変えてくれること」と強く語る。「外を歩いていても眼に入るものが変わりました。木立の枝葉の色合いや山肌の、季節による移り変わり……。思わず見とれて、描きたいという衝動を感じることばかりです」

描く時間を捻出できないときもある。それでも研究会には時間の許す限り出席する。

「研究会で見る力を養っておけば、人に訴えうる絵が描けるのではないかと思いまして」と粟井さん。もちろん、表現力の「研鑽の場」としての意義もかみしめている。

「ほかの会員の方たちの作品を、初期段階から完成までの経過を通じて拝見できますし、先生方のお言葉や、ときにはパステルをとっての具体的なご指導まで拝聴できる。書物からなどでは決して得られない、貴重な教えをいただけています」

 現在、粟井さんは、もう一つのライフワークともいえる、粟井姓にまつわる調査も手がけている。県内はもちろん、全国の粟井姓の分布や、出身地、由来を調査した記録は、膨大な歴史研究資料となりそうだ。「末永く継承される記録の一つになれば幸いです」と語る謙虚な物腰に、見て、学び、表現する喜びを深く味わっている姿を垣間見たような気がする。

構成・文/中原順子(フリーライター)

 

file001 赤柏恵子

「チャンスを与えてくれた」

 

 

授業風景

 

校内に飾られた赤柏さんの作品

校内には数多くの作品が展示されている。

名画の複製画のある踊り場。

 

 

●幸せな一コマ

 11 時 45 分。まだ4時間目の始業チャイムは鳴らないが、バタバタと美術教室に入ってきた生徒達は、壁際に置かれた作品収納箱から自分の作品を取り出すと早速席に着き、自由な形に切り抜かれた合板を大事そうにサンドペーパーで磨き始めた。

岡山市街地から車で 15 分ほどの距離にある田園地帯の中学校。すぐそばにはゆったりと流れる笹が瀬川、古代吉備文化を今に伝える神社がある。

「先生、もう始めてもええじゃろ」

 チャイムを待ちきれない男子生徒が電動糸鋸器の前に立ち、授業の準備に追われる赤柏恵子さんに声を掛けた。

「ちょっと待ってんよぉ。最初に説明するからなぁ」

 これから始まる授業がどんなに楽しいものなのかが伺われる幸せな一コマだ。

 

●その先生のようになりたかった

 赤柏さんは、いぐさの町・早島に生まれ、祖母が織機でゴザを織る音や、職人気質の父が経営する鉄工所の音に囲まれて育った。そんな彼女が絵を勉強するようになったのは小学校 5 年生の時だ。

絵が好きな母親が、娘にぜひ絵をならわせたいと、自宅を絵画教室として開放。講師は当時小・中学校で美術を教えていた早島在住の教師。生徒は近所から 15 名ほど集まった。

「批評会のとき、いい絵が描けたら先生が抱っこしてくれたり、頭をなでてくれたりするんですよ」

 と当時を思い出しうれしそうに話す。

「その先生のようになりたかったんです。」

その後中学校、高校と美術部で活動。高校では現在岡山支部代表の福島隆壽先生に指導してもらった。教員になってからも制作は好きで続けていたのだが、光風会に出品するようになったのは3年前から。

光風会岡山支部会員のお孫さんが生徒として現勤務校に通っており、その生徒から光風会展の展覧会の案内を受けたことがきっかけだ。支部展に通うようになって 2 年目に会場で偶然福島先生と再会し、一緒に絵を頑張ろうということになったのだ。

 

●チャンスを与えてくれた

「チャンスを与えてくれた」 と赤柏さん。

「学校の仕事も忙しいのですが、みなさんのレベルに追いついていけるように頑張っています。もっと繊細な絵が描けるようになりたい。ルドンの花の絵のような、色彩の美しい作品が描けるようになれたらと思います」

 そんな赤柏さんの明るさを映し出すように、教室内に展示されている生徒作品はどれも色彩豊かでユーモアに溢れている。

「他の教科とちがって、授業のなかで一人一人と会話ができます。卒業生から『あのとき先生に褒めてもらったことを覚えている』、『美術の授業は楽しかった』といわれることが何よりうれしい」

小学生の頃絵を描く楽しみを知り、頭をなでてもらって喜んでいた少女は、今こうして大好きだった先生と同じ道を歩みながら、色彩にあふれた作品が生まれる日を信じ、制作活動に意欲を燃やしている。