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作家ファイル4 魚森貞雄「これ以上に美しいものが あるんだろうかと思う」

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●好きだから描く、ということ。

「絵を描くのが、とにかく好きで好きでたまらんのです」

 魚森貞雄さんは、こんなシンプルでまっすぐな台詞があまりにもしっくり来る人だ。

去年の冬には、心臓疾患で入院中には、看護士の眼を盗んで毎朝、敷地内を散策し、2冊のスケッチブックをいっぱいにした。若い頃は、移動中の船上でも、汽車中でも、束ねた反故のワラ半紙に、寸暇を惜しんで描いていた。戦後間もない、スケッチブックなど簡単に手に入らない時代のことだ。

「汽車の中で、向かいの席に座っている人を描き出したときは、何を勝手に描いているんだ、とその人にムッとされてねえ。銀座の大通りでも写生していたことがあります」と魚森さん。こんな「熱中エピソード」を挙げればキリがない。

 自他ともに認める「岩を描く人」として、万成山(岡山市)や豪渓(総社市)など、花崗岩の切り立つ岩場に、画材一式を愛車に積み込んで日参する姿は、病後も健在だ。「体が鈍ったら描けませんから、毎朝真剣にテレビ体操をやっとるんです」という笑顔の、健康的な陽焼けがたのもしい。


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●厳しくもあり、無垢でもある岩。

 それにしても、なぜに岩なのか。こんな獏とした質問に、魚森さんは半ば困りながらけれど頬を紅潮させて答えてくれた。「こんなのでも、いいなあ、好きじゃなあ」と、足もとに転んでいた小石にも眼を細めながら。

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「どんな小さい石でも、空間を切ったような、深い、厳しい線をもっている。それがきれいだなあと思うんです」

 どうやら自宅には石のコレクションもあるらしい。

「採石場。これがまたいい。爆破され、掘り出されて、初めて外界に生まれ出たばかりの岩肌といったら……」

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 赤ん坊の無垢な輝きか、乙女の肌か、いや、これ以上に美しいものがこの世にあるんだろうか、と言いかけて、魚森さんは笑った。中学校で教えていたころ、夏休みに出かけた大多府島(備前市日生町)で、松林を背景に波に洗われる岸壁の姿に魅せられて以来の、数十年もの恋心なのだ。

 

 

 

●戦死した兄の後を継いで。

 「魚森くんのように描くんじゃ」と他の生徒にその作品を見せて、褒めてくれたという旧制中学時代の恩師をはじめ、光風会関係はもちろん、大学や美術学校、その他の縁で知己となった師の教えを昨日のことのように覚えている。

スランプのとき「絶対絵をやめるな」と言われたこと、「重ねたら背の高さになるくらいまでの枚数を練習したら、デッサンがうまくなる」と言われたこと。「僕は何でもエエほうに解釈するんです」と語る、その大らかなひたむきさが、おそらく良い出会いを生んできたのだろう。

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 そんな魚森さんが静かに語るのが戦死した兄のこと。戦況が許さず、徴兵されないものと言われていたのが戦地に散った、若き小学校教師の一人だった。その兄に所縁ある人々の支えで、魚森さんは教壇に立ち、やがて美術の道に進むことになったそうだ。

「生きとるときに元気で頑張らんと。描かんと」と、自分に言い聞かせるように、私たちを鼓舞するように何度も言う魚森さんのそばに今も、亡き兄上がいる。終戦60年の夏(記事作成当時)がもうすぐやってくる。

構成・文/中原順子(フリーライター)



作家ファイル3 飯塚康弘「人の強さを 描いていきたい」

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●「描きながら教える」という生き方。

昨年5月(注:この記事は2005年に作成したものです)に倉敷で行われた夏季講習会の参加者なら、大人たちに混じって真剣な面持ちで講評を聞いていた高校生たちの姿を覚えているだろう。

彼らを引率していたのが出雲北陵高等学校美術コース主任の飯塚康弘さん。

「挨拶をすること、嘘をつかないこと、約束を守ることには厳しい教師かも。周囲に愛される人間になってほしいですから」と禁欲的な教育者の一面も見せる彼は、2002年開設時から同コースに携わっている。

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教師と制作活動の両立は大変だと思うのだが、「教えながら絵を描き続けている先生たちはいっぱい。僕なんかまだまだ」と自分にも厳しい。

目指すべき姿を見せてくれた過去の出会いが彼にこう語らせるのだろう。その一人は高校時代の恩師。美術準備室でずっと静かに絵を描いている姿に「こういう生き方もいいなあ」と思い、美術系の進学を決意したという。そしてもう一人が、岡山大学教育学部・通称「特美」で出会った福島隆壽先生だ。

●模索を繰り返していた岡山時代。

黄色でリンゴを描いたとき、「面白いですなあ」とおっしゃった福島先生のことを、「直感的にいい先生だと思った(笑)」という飯塚さん。しかし福島研究室時代は「描くことの大変さ」を学んだ時代でもあったらしい。

「なんだかとても困ってたんです。先生の絵にそっくりになってしまったり、教わったことは全部排除して自分でゼロから始めようと思うと、今度は絵がまったく出来上がらなくなったり。作風も『こんなに変わる人、おらん』ってくらい変わりました(笑)」

 人物画から抽象まで手当たり次第に挑戦し、もがいていた当時を 10年近くの歳月が経たいまなら、客観的に振り返ることができる。

「教える立場で生徒たちの作品を見るようになってみて初めて、人には特性があることがわかってきたんです。無理する必要のない、その人らしさというものが。でも、放っておいたら、つい新しいことを試してみたくなるのも、人間というものらしいですね」

 生徒たちが「自分らしさ」から逸れていかないように見守っていたいという飯塚さんの願いは、紆余曲折を経た先輩としての気持ちなのかもしれない。


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●故郷の風景に託す、たくましい人間の姿。

 そんな飯塚さんが帰郷をきっかけに描き続けているのが、生まれ育った島根の風景。いわば、「原風景を通して人を描く」という試みだ。

「ここから逃げずによく生きてるよなあ、という人間の強さみたいなものが描きたくて」

と飯塚さん。その視点には、厳しさと優しさ、せつなさと喜びが同居している。

「人間を描くと、思い入れでカーッと熱くなりすぎるところがあったのが、風景に思いを託すことで普段着のように描けるようになったかもしれません。でもやっと自分が今ごろ気づいたことが、実は大学時代にすでに先生に教わったことだったりする。 10年分のことを先に教わっていたのだなあ、と改めて最近感謝しているんです」

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*飯塚さんの記事はこちらのサイトで詳細が掲載されています。
グループ8ウェブサイト:https://groupeight.exblog.jp/7972338/

(2005年の記事を転載しています。現在飯塚さんは島根で活動をされています)
構成・文/中原順子(フリーライター)



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