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作家ファイル14 藤井淥水「諸先生の提言を胸に守ってきました」

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経歴

1940年 広島県福山市生まれ
1996年 岡山県美術展覧会入選(以降入選21回の内、県展賞2回、奨励賞4回)
1997年 丸紅(株)定年退社
2002年 岡山光風会入会
2006年 「長屋門」第92回光風会展初入選(以降入選11回)
2012年 「山門の秋」第44回日展初入選
その他多数のグループ展に出品


作者のことば

―岡山光風会入会、10年を振り返って―

 1999年に当時、福島隆壽代表講師の人物画を主とした油絵教室に入会しました。
 2002年1月に岡山光風会入会をし、4月の光風会展(F100)へ挑戦、初回は3人の人物画を描き、見事選外となりました。それを契機に風景画のモチーフに挑戦し、4年後(2006年)初入選。激戦の上、やっと入選し嬉しさも倍増でした。
 現在のモチーフは、「山門」曹源寺に至って居ります。このモチーフに取り組んで居りますのも、諸先生の「一度決めたらモチーフは徹底的に追求し続けることである、逃げるな」との提言を胸に守って来ました。
 毎年光風会展に向けて、諸先生方の熱が入ったご指導を仰ぎ、出品へと進んで行き、入選の暁には会員と共に感激を味わって居ります。それは、諸先生方のご指導のお陰だと心から深謝して居ります(朝日カルチャーから山陽新聞カルチャーに移行され、現在も福島講師の実技指導にて永年続いて居ります)。

―将来の展望―

 永年の体験を基に同じ趣味の方々をご指導し、皆さんと楽しみながら、一緒に勉強を続けていく事で上達したいです。(2017年現在77歳)


2017年「2作家の10年」の展示より

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会場風景

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「悠久の山門」(2008年)F100号

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「山門」(2016年)F100号



作家ファイル13 筆保博文「ぐねぐねと蛇行している。 まさに人生だ。」

*この記事から「岡山光風会展企画展:2作家の10年」からの引用となります。
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経歴

1940年  岡山県生まれ
1963年  岡山大学教育学部卒
       山陽放送(株)入社、1974年までテレビ美術担当
2006年  岡山光風会入会
2007年~ 第93回光風会展初入選 以降毎年入選
2013年  「ブルーシャドウ」岡山光風会賞受賞
2014年  「ヴァカンス」改組 新 第1回日展入選
2016年  「ヴァカンス'16」改組 新 第3回日展入選
2017年  「日々新」第103回光風会展 光風奨励賞受賞
     岡山光風会展「2作家の10年」


作者のことば

作品作りは面白い。
描き続けると次の課題が見えてくる。
それをクリアするとまた次の課題が見えてくる。
その繰り返しがこの10年。
ちょっと振り返ってみた。ぐねぐねと蛇行している。
まさに人生だ。


2017年「2作家の10年」の会場より

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展示の様子


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「アゲインスト」(2010年)F100


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「ヒロイン」(2014年)F100



作家ファイル12 山根章裕「描きたいものを、ちゃんと描けるようになりたい」

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父が県立青陵高校の美術部だったので、よく福島(隆壽)先生の話を聞いていました。
だから、光風会岡山支部の研究会に参加して先生にお目にかかったときは、
「ああ、この方のことだったんだ」
と感慨深かったです。

僕の場合、岡大を勧めてくださったのは、
当時、青陵高校で美術を教えていらした河本昭政先生(東光会)でした。
「山根君、岡大に行ってみたらええがぁ」って。
そのときは、岡大に行くかどうか迷っていましたが、河本先生の
「どこに行っても、絵を描くのは自分じゃが」という一言は、今でも忘れられません。

そして、大学に入ってからは、3年のときから西山松生先生のゼミに入りました。今、思えば、これが光風会との縁になったわけですが、当時はそんなことになるなんて、全然思ってもいませんでした。ただ単純に、西山研究室が面白そうだったんです。

同じ光風会に入って、今度、一緒にグループ8に参加する藤原(智也)くんに言わせると、僕は、西山(松生)先生に、溺愛されていたそうです。

確かに一対一のゼミで筆の洗い方からキャンバスの張り方まで油絵の基本を一から教えていただきました。
それから先生はゼミ生以外の学生にもよく指導されていたので、藤原くんたちも一緒に、県内のあちこちにスケッチ旅行に行ったりもしました。

西山先生のゼミは、水曜と木曜の週2回。
木曜日の朝は石膏デッサンで
水曜日は、朝から先生と二人で奉還町商店街にスケッチに行くんです。
それぞれに、好きな場所があって、僕は花屋や果物屋が好きでした。
お店の方に「頑張るなぁ」と、声をかけていただくこともありました。
そして、午後は大学に戻って制作です。

街頭でスケッチなど、今までしたこともなく、新しい体験ができる、この時間が楽しくてしかたがありませんでした。大の苦手だった石膏デッサンがなんとなく嫌いではなくなったことも、大学で得ることができた大きなものの一つです。
それも、すべて西山先生のおかげです。

西山先生には、よく
「山根くんは、どんどん伸び伸び描きなさい」とおっしゃってくださいました。
先生が岡大を退官されて、東京に戻られた今でも
ときどき手紙で作品を見ていただいたりしているんです。

続きはグループ8ウェブサイト:https://groupeight.exblog.jp/8618665/


構成/中原順子(2008.7)



作家ファイル11 福島隆壽「我々人間にできるのは、ただ、続けていくことだけ」

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手前味噌になりますが、今、光風会岡山支部は、とてもいい状態にあると思います。
若手の育成が、私のような年配の者が手出ししなくても、連綿として続いている。

実は、若手をどうやって引き入れ、伸ばしていくかは、
全国の美術団体が抱えている深刻な問題なのです。
そもそも、「絵では食えない」という意識が、
我々の若いころから続いている。
今の若者も、美術方面に進むとしても、
「食べて」いけそうなデザインや工芸に
流れるケースが多いようです。

また、せっかく絵画の道に進んでも、その受け皿がない。
今は、中央だけでなく、中国地方にも
美術系のコースをもった大学が林立していますが、
果たして、若者が卒業後も心置きなく勉強できるだけの
チャンスや環境、師に恵まれているか、
というと決してそうではないのが現状です。

その点、我が岡山支部は、若手がちゃんと育ち、
彼ら自身が年齢の近い次の世代を育てていく、
という土壌ができあがっていると言えます。

「グループ8」がその最たるものの一つでしょう。
今回の展覧会では、いわばグループ8の「一期生」と言ってもいい世代と
20代の新人たちが同じ仲間として参加します。

今年に入って、第43回昭和会展松村賞、第94回光風会展田村一男記念賞、
第9回岡山芸術文化賞準グランプリと、立て続けに大きな賞を受賞し、
乗りに乗っている佐藤智子をはじめ、
第92回光風会展光風奨励賞を受賞した岸本修、
今年の光風会展光風奨励賞を受賞した常原佳子、
出雲北陵高等学校美術コースで主任を務める多忙な生活のなかで
精力的に制作活動を続けている飯塚康弘と、
「一期生」たちは、今、まさに輝かしい業績を上げ、さらに進化し続けています。

また、今回から「30代まで」という年齢制限を設けたことで
「グループ8」を卒業した、一期生の一人、石田宗之の存在も、
二期生たちには、大いに励みになるでしょう。
石田もまた、第36回日展特選、第91回光風会展辻永記念賞、
第6回岡山芸術文化賞準グランプリ受賞など、目覚ましい活躍をしている作家で、
現在は光風会の評議員も務めています。

よく他の支部の方々から「岡山支部の活躍がうらやましい」と
お褒めの言葉をいただきますが、こういう実績を考えると、
まあ、満更でもない(笑)。
そして、また私自身も、こうした、かつては大学でも教えていた教え子たちの
見事な活躍に触発されて、ともに成長させてもらっていると感謝しているのです。

 続きは「グループ8」ウェブサイト:https://groupeight.exblog.jp/8482677/へ。


構成/中原順子  2008.7



作家ファイル10 関野智子「惜しみなく、惜しげなく指導していただいた」

*この記事から、岡山光風会若手グループ「グループ8」のウェブサイトからの転載となります。

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作品に白を多用していた時期があります。

きっかけは、「呉越同舟」というグループ展の第1回展。
毎回一つ決めた展覧会テーマに合わせて、
ジャンルも作風も違うメンバーが新作を発表するんですが、
その最初が『白の展覧会』だったんです。
それで、「白ってなんだろう」と一生懸命考えることになりました。

最終的に当時の私が出した白の解釈は、
「存在と無の際」というものでした。
何もない状態であり、同時にすべてを含有するものでもある「白」。
その解釈と、福島(隆壽)先生が以前おっしゃっていた
「強いコントラストで目を引くことは誰にでもできるんだ。
弱いコントラストでありながらパチッときめていく、すると高級な絵になる」
という言葉がつながったんです。

こうして白を基調にした、
あるかないかのギリギリのコントラストの作品を
目指すようになったんです。

ただ数年続けているうちに問題が出てきました。

白を使って「攻めて」いたはずなのに、
だんだん白に「逃げる」ようになってきたんです。
自分でも「白い病にかかってる」と思っていたくらい(笑)。
白以外の色を使うことが恐くさえなってきていたんです。

好きな抽象画家にマーレビッチという作家がいるんですが、
彼は『白の上の白』という作品で、
白く塗った正方形のキャンバスに、傾いた白の正方形を描いています。
究極の白ですよね。
やがて彼は抽象画を捨てています。
そりゃ、そうでしょう、そこまで行ったら、もう描けませんよ(笑)。
そして私自身も、このままだとヤバイなあ、と思うようになってきました。


続きは「グループ8」ウェブサイト:https://groupeight.exblog.jp/8012341/へ。

構成/中原順子



作家ファイル9 深井 貞子 「平面を自ら構成する という術を学びました」

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●「 10 年同じものを描き続けなさい」

 北政所ゆかりの陣屋町、足守で、代々醤油造りを続けた商家、藤田家。深井貞子さんが『醤油蔵』シリーズ作成のモチーフにしているのが、この旧足守商家藤田千年治邸の醤油工場だ。
職人たちが受け継いできた熟練の技や、子どものように手をかけてじっくり「育て」られた醤油を、受け止め、支えてきた木の道具たち。そこにあるだけで、さまざまな歴史や物語を伝えてくれるような、重みのある道具たちと、深井さんは向かい合ってきた。

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 このシリーズをはじめて、今年で9年め。
福島先生の「同じものを 10 年は書き続けなさい」という教えを守ってきた。7年めの秋に日展初入選、そして8年めの昨年は第 35 回岡山光風会展で「岡山光風会賞」(旧「 H 氏賞」)を受賞。
誰にも描けない、深井さんだけの『醤油蔵』が確立されつつある。

「遊びでここを訪れたとき、
いい雰囲気だなあとは確かに思っていたのですが、
ここまで追究することになるとは思ってもみませんでした。
趣きのある建物だけれど、
こういうものは、もう誰でも描いているなあ、
と思っていたくらいで」
と深井さん。

そんな先入観を解放してくれたのは、
光風会常務理事、寺坂公雄先生のアドバイスだったという。

「蔵のなかには、いろんなものがあるだろう。
そんなものでも、絵は構成できるんだよ」

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●床にへばりつくようにして見た木桶の姿

見たままを描くのではなく、いかに平面を絵として構成するか。
深井さんの試行錯誤が始まった。
たくさんの醤油樽や桶から、どれを選び、
どのようにキャンバスのなかに配置するか、
どの視点からそれらを見つめるか。
漆喰の壁をどれほど見せるのか。
威風堂々とした梁は、どう配置すれば
他のモチーフと良い相乗効果をもつだろうか。

「結果として、床にへばりつくようにした姿勢で
見る構図になりました。
立っていては、梁は、ああいうふうには見えないんです」

道具類の間にのぞく、隙間の大きさ、
壁の白と飴色の古道具とのコントラスト。
もっとも視覚的に美しい平面づくりのための計算が、
このシリーズのなかには随所に隠されている。

「そして絵を見てくださる方に、
そんな計算が臭うようではいけない。
伝えたいのは、むしろ埃や黴の臭い、
この国に確かにかつてはあった、
古き良き職人たちの技の面影ですから。
難しいところです」

●自分をなくさないために描く

06 年3月に、自宅のアトリエを改装した。
いわゆるバリアフリー化である。
左足の人工骨置換という大手術、リハビリを乗り越え、
深井さんは精力的に描き続けている。

「絵をはじめたのは、夫、義理の両親と、
立て続けに亡くなったのがきっかけでした。
いちばん小さい子がまだ小学校4年生のとき。
当時は洋裁の仕事をしていました。
仕事と3人の子の母親業で押しつぶされそうな毎日で、
このままだと自分がなくなってしまう、という危機感があったのです」

女学校時代、放課後も残って描いていたほど好きだった絵のことを思い出したとき、確実に深井さんの人生は変わったのだ。

岡山支部顧問である久山章先生との出会いがあり、
それが光風会との出会いにつながり、
9年前からは福島先生のカルチャー教室にも通っている。

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「美しいものに触れる喜びが、絵を描くことを通じて、
どんどん広がっているように思います」

と深井さん。

アトリエでは、弟さん作の大きな壷に、丹誠した庭の花々を生ける。そして、それを絵筆で再現する。
自然への愛情や感動は、
月に1回通っている短歌の会でも詠われる。
表現することは、深井さんの毎日に、
ごく当たり前に溶け込んでいる。

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(構成・文/中原順子) 08・05・01



作家ファイル8 那須 萬喜子「私だけの樋門を描きたい」 という表現欲がやっと出てきた。

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●プロ集団を前にカルチャーショック。

 月2回開講の、福島先生の『日曜油絵講座』が始まったのは 1990 年 10 月。実は那須さんの洋画人生も、この講座の第一期生として同時にスタートした。
「今度、油絵をはじめるんですけど、何が必要でしょう?」
と画材屋で道具一式そろえ、
新たな趣味作りくらいの軽い気持ちで門を叩いた習い事は、
光風会との出会い、そして終わりのない探求への道につながった。

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「申し込みのとき受付の方に『絵を描いたことがありますか』と聞かれて、『はい』と答えたんです。
油絵の経験はありませんでしたが、絵なら子どもの頃のお絵描きでも、美術の授業でもやっていたし、と。
そうしたら、講座が始まってから、ほかの方のレベルの高さにびっくりしてしまって」

 そういえば、受講生募集の広告に「中級者以上」と書かれていた、と那須さんは苦笑しながら振り返る。
それでも、すぐに油絵の魅力にとりつかれた。

「講座のある日は、孫が『おばあちゃん、今日は絵のお勉強の日だね』って。ふだんとは出立ちも表情も違うらしくて(笑)」
 翌年からは、基礎をしっかり学ぼうと、4年間、坂手先生のデッサン教室にも通った。

曰く、負けず嫌いで、やりはじめたら、とことん熱中するタイプ。
95 年には岡山光風会入会する。

「初めての研究会では、錚々たる方たちの集まりに、これはとんでもないところに来てしまった、とまたカルチャーショック(笑)。
福島先生が『光風会はプロの集団』とおっしゃったのが、身にしみました。この言葉には、今も戒められていますが」

●行き詰まっては通う樋門への道。

 ところで、那須さんといえば2004 年から続けている『樋門』シリーズが思い浮かぶが、なんと、これが風景画の初挑戦。それまでは、光風会にも人物画で出品していた。

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「風景は、なぜかずっと描かず嫌いだったんです。
静物は好きだったので、最初のころは樋門も、自分のなかでは風景というより、静物画のモチーフの感覚。構図のとり方も、まったくわからなくて、写真を拡大して、比率を計算して。
まるで設計図を描くみたいな作業をしていました」

 児島湖の干拓時代の面影を残す、今は閉じられたままの近所の樋門に、那須さんは自転車で何度も何度も通う。

「行き詰まっては見に行って描いて、家で制作しているうちに、ああ、こんなはずじゃない、となってまた見に行く。その繰り返しです。淀んだ水、凍えるような朝の凛とした空気感…。課題はいつもいっぱい」

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 ふと人物画に帰りたいなと思うときもある。
「でも、福島先生に、もう戻ったら駄目だと言われてます。
悩むのはいいけれど、迷うのはいかん、
決めたら迷うな、ほかの人の描く樋門を蹴散らすつもりでいけとまで(笑)。でも、私だけの樋門が描きたいのは確かです」

 油絵をはじめたころは、講座の前日になると
「わあ、明日は絵の日だ!」とわくわくしていたという那須さん。
創造の喜びだけでなく苦しみも知ってしまった今は、
単純に楽しい、という感覚からは卒業したという。

「最近になって、やっと『自分の絵を描く』というスタートラインに立てたという気がするんです。
自分を表現したい、
そして、ほかの人にも何かを感じてもらえる絵が描けるようになりたいって。
まだまだこれからです」

構成・文/中原順子  2007・05・01



作家ファイル7 岸本修「導きについてきて、 今の自分と絵がある」

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*2007年の記事です。


●人も自分も楽しめる絵を目指して。

 強い自我を他者に出さない人だ。
物静かに淡々と言葉を選んで語る人。
その岸本修さんが、
「描いてるときに、<おっ、お? おおっ !? >となった。
うまく描けたというより、描いていて面白かった」と教えてくれた作品が、第 92 回光風会展で光風奨励賞に輝いた『屹立』だ。

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「こういう状態にはめったに行けないんだけど(笑)。
研究会などでいつも清原(啓一)先生に言われてることなんです。
堅くなって描いてたら駄目なんですね。
そうすると人に自分を押し付ける絵になってしまう。
人も楽しんで、自分も楽しめる絵にしないと」

 ずっと描き続けているのは、
人物と、その背景のように座している牛。
農家に生まれた岸本さんには、牛は身近な素材だ。
蔵に唐箕(とうみ/穀物を精選する農具)があるような、
友人から「トトロの世界みたい」と言われるような
日本の古い面影が残っている農家。
そんな生まれ育った世界を偲ばせる作品を描いていることを、
言葉にこそ出さないが両親も喜んでいるそうだ。

「<あんたの家には牛がおるんですか、
ええですなあ、そういう家はもうほとんどないですからなあ>
と薦めてくださったのは福島(隆壽)先生です。
人の描かない、目立つものを描けと」

●50 冊描きためたスケッチブック。

 目の前の状況に抗うことなく、
むしろ師や先輩の教えを素直に受け止めて挑戦してきた。
そもそも岡山大学で美術教育を専攻したのも、
積極的に美術の道に進もうと考えていたわけではなく、
家庭の事情などで、否応無しに選んだ進路だったという。
もちろん、小さい頃から絵を描くのは好きだったけれど。

「慌てて受験用の美術の勉強をしたんです。
これしかないんだから、頑張ろうって」

 しかし、そのとき教えを請うたのが、
故・小森俊顕先生であり、
それが光風会との出合いに繋がっていったのだから
縁というのは面白い。

「大学では、美術への意識の高い同級生のなかで
門外漢のように感じていたときもありましたけど、
いい先輩に恵まれたんですね。
いつの間にか馴染めていました。
最初に県展に出品したときも、<出してみれば?>と言われて、
そうか、そうするもんなのかって(笑)。
先輩が、画材屋に一緒に行ってくれたりね」

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 入学した年に、とある先生に
「スケッチブックがこれくらい(と肩ほどの高さに手を上げて)に
積み重なるまで練習したら、上手になるよ」と言われて、
すぐに挑戦しはじめた。
今も保存してある、当時からのスケッチブックは、 50 冊は軽く超えている。

●やっぱり興味があるのは人。

 ところで岸本さんは、似顔絵イラストの名手でもある。
「自分にとって気安い人ほど、毒のある顔になるかも(笑)」と、
さらさらと描いた友人や恩師の顔は、学生時代から周囲にも好評だ。
「幅を広げるために、静物や風景も描いていかないとな、
とは思っていますが、作品にはなかなかできません。

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まずはこれからも人を描き続けていってみたいですね」と岸本さん。
数年前、一度行き詰まって以来、
実際に人と向きあってしっかり描くようになった。
それは自分自身だったり、あるいは同僚だったり。
その人らしい、生きた重みが感じられる佇まいを、
岸本さんの原点とも言える牛がこれからも見守っていくのだろう。

○岸本さんの記事は次のサイトに詳細が掲載されています。
グループ8ウェブサイト:https://groupeight.exblog.jp/7985405/

構成・文/中原順子(フリーライター)



作家ファイル6 河野あき「風化していく風景の美が、 大切なことを教えてくれる」

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*2007年の記事です。

●納得できるまで学び続ける情熱。

 近くにあった美大の学生たちがスケッチブックを抱えて闊歩する姿に憧れて、ほんの軽い気持ちで美術部に入ったという、かつての京都の女子大生が、一昨年(2006年)光風会会員入りを果たした。
「これまでの紆余曲折が実は1本の道になっていたことが今になってわかる」と河野あきさんは振り返る。
短大卒業後、結婚、出産、育児で一度は手放した絵筆を、通信講座を受講して再び握るようになった。今でも折に触れて手にとって見直す当時のテキストは、河野さんの宝物だ。

 以来、「もっと上手になりたい」という情熱が、いつも河野さんを突き動かしてきた。東京で開かれる勉強会にも積極的に参加し、多くの人の作品、考え方に触れた。
「子どもが受験生でもおかまいなし。<余所じゃお母さんのほうが受験に熱心なくらいなのに、うちは放ったらかしだ>と息子に言われたこともあります」
と河野さんは苦笑する。

一度やると決めたことには、
納得できるまでとことん追求してしまうタイプだという。
椅子をモチーフにした作品制作のときには、
これぞという椅子を探し続け、大阪まで足を伸ばしたこともあるそうだ(この作品は、 89 年に県展市長賞に輝いた)。

●石膏デッサンから学び直したスランプ時代。

初めて大きなスランプに陥ったときもそうだった。
今から 20 年近く前のこと。
見えない壁を破るために河野さんが選んだのは
「一からやり直す」という道だった。
「石膏デッサンを習ったのはこの時期です。
基礎をしっかり固めようと思い直したんです。
改めて本気で絵画と向かい合おうと思えた、
私にとっての転機の一つだったかもしれません」

 間もなく次の転機がやって来た。
89 年秋から約1年、ご主人の留学に同行して過ごしたヨーロッパ。
オランダ、ドイツ、イタリア、オーストリアと、
そのものが芸術のような街並と、
美術館の膨大なコレクションに囲まれて過ごした。
「小手先のいい加減な作品を作っていては恥ずかしくなるような、
本場の、圧倒的な美の数々を目の当たりにして、
かえって気が楽になりました。
あるものをあるがままに描けばいいんだと、ふっ切ることができたんです」

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●深く考える喜びを、絵画が教えてくれた。

 今も続く、彼女のヨーロッパシリーズはこうして生まれた。
90 年の日展に入選した、シリーズ第1作の『村の朝』を、
河野さんは「自分にとっては処女作のようなもの」と言う。
そこに生きてきた人々の思いや息づかいを吸い込みながら、
年月をかけてゆっくりと風化していったような、ヨーロッパの石畳や壁。
そして、その中で「今」生きている、ごく普通の庶民の暮らし。
長い時の流れと現在が自然に溶け合っているのが、
河野さんのヨーロッパシリーズだ。
今も1、2年おきにご主人とヨーロッパに出かけては、
スケッチを楽しみ、新たな創作のインスピレーションをかき立てている。

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「たとえばギリシャ遺跡などの古い大理石の質感に魅せられます。
何千年もの昔からの人々の歴史があって、
その延長上に自分がいるのだと思うと神妙な気持ちになる。
何かを見ても表面的な感想に終わらず、
深く物事を考えるようになってきたのは、
絵画が私にくれた恩恵だと思っています」

取材・文/中原 順子



作家ファイル5 萩原純子「目の前の緑を どこまで再現できるかが課題」

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●出品で学んだ「描く」ことの緊張感。

 故日原晃氏にちなんだ「 H 氏賞」受賞作(第 33 回岡山光風会展)『朝霧(ぶな林)を、「その美しさを誰よりも知っている作者が描いたもの」と福島隆壽先生は称した。

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自身の住む西粟倉村の原生林を描き続けている萩原純子さん。1枚の作品のために、ご主人と1時間以上かけて山道を登る日々が数日続く。

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「風景がもっている品格や神々しさまで絵に盛り込もうとしている」(福島先生)ほどに、彼女はその雄大な自然に日々静かに向き合っている。

 しかし、そんな萩原さんが本格的に絵筆を握ったのは、なんと 50 歳で小学校教諭を早期退職してから。柴田晴江先生の絵画教室に通ったのがきっかけだったという。家事や介護に追われる日々のなか、何とか時間をやりくりして週に一度、津山の教室まで通ったのだそうだ。その後、鷲田重郎先生、高山始先生に師事。このころから県展をはじめ、さまざまな絵画展に出品するようになった。

「あっちに出せ、今度はこっちに出せ、と先生の言われるままに、ただ夢中で描いていました」と当時を振り返って笑う萩原さん。けれどもこの日々が、何よりの研鑽になったとも言う。

「他人の目に触れられるという緊張感やプレッシャーが大切なんですね。習作ではなく、作品として最後まできちんと仕上げる過程で得られることがたくさんあるということもわかりました」

 この経験をふまえて、自ら主宰する絵画教室の生徒さんにも、毎年年賀状や書中見舞いを「描く」という課題を出しているそうだ。

「手近にある野菜でも花でも何でもいいから、必ず実物を見て描いたものを送ってちょうだいね、って。楽しみながら描いてほしいし、これもきっと力になると信じています」

 今年の県展に出品した生徒さん 10 人のうち6人入選、うち2人入賞という快挙も、おそらくこんな指導の賜物に違いない。

●四季の移り変わりを描くのが目標。

 ところで萩原さんは、その独自の画法でも知られている。たとえば着彩の順序には自分で決めた規則がある。砂を入れたマチエールも特長。また現場に出かけるときには、あらかじめ色を練っておいた数種類の絵の具の小瓶を持参するのだそうだ。

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「刻々と変化していく自然を相手にしている貴重な時間を、色を作るのに費やすのがもったいなくて思いついたんです。うちにいるときに写真を見たりしながら、自分の見た色彩を一所懸命思い出して、色を作っておくんですよ」

と萩原さん。木々の緑は題材として難しいからやめろと、かつて言われたこともあるという。

「でも好きな題材だから必死になれるんだと、描き続けてここまで来てしまいました。木々の生命力を目の当たりにしたときの感動を、なんとか描いていけたらなあと思っているんです」

もっとも好きなのは初夏の原生林だが、四季折々の美しさも捨てがたい、と萩原さん。いずれ同じ構図で四つの季節を描いてみたいと意欲的に語っている。

構成・文/中原順子(フリーライター)


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